星野仙一70歳の野球人生閉じるあなたの元で野球が出来て良かった

星野仙一氏への追悼の言葉が後を絶たない。
最弱チームを二度に渡って優勝へと導いたその手腕と豪放磊落な人柄が、人々をして、哀悼のフレーズを紡ぎ出させる。
今回は、星野仙一氏を惜しむ声をご紹介します。

元阪神一軍投手コーチ 西本聖氏の場合




記者
星野仙一さんが70歳の生涯を閉じました。

西本聖氏
びっくりしました。昨年11月の殿堂入りのパーティー。私はうかがえなかったんですが、お元気そうでしたし、驚いています。殿堂入りが決まった時に「おめでとうございます」とお電話させていただいたのが最後になってしまいました。

記者
1989年、トレードで巨人から中日に移籍。星野監督のもとで3年間プレーしました。

西本聖氏
前年(88年)は4勝しかできなかった。それでもトレード(巨人から西本、加茂川、中日は中尾)で獲っていただいた。移籍が決まってある関係者から「星野監督はなぜ西本を獲ったか分かるか」と聞かれました。自分としては2桁勝利を期待されていると思っていたんですが、それだけではなかった。「野球に対する姿勢、取り組み方を若い選手に見せて欲しい」と星野さんは考えていたそうなんです。それを聞いてすごくうれしかったですね。自分はドラフト外でプロに入ってそこからはいあがってきた人間。そういう姿を見ていてくれたんだなと。だったら「西本を獲って良かったな」と言われたい。そういう気持ちになりました。

記者
星野さんはどんな監督だったんでしょうか?

西本聖氏
すべてを自分に任せてくれました。オーストラリアのゴールドコーストでキャンプしたんですが、朝6時前に起きて投手陣でゴルフ場を走った。マラソンで1位で帰ってきたこともあった。若い選手に姿勢を見せなければいけない。星野さんの期待に応えたいと思いました。3年間、1度も怒られなかったですね。

青さん
そして、移籍1年目に20勝を挙げ最多勝しました。

西本聖氏
移籍初登板(89年4月12日のヤクルト戦=神宮)が忘れられません。2-2で延長戦に入ったのですが星野監督がベンチ前の円陣で野手に檄を飛ばしたんです。「オマエら何やってんだ! ニシに勝たせてやれ!」。巨人時代の14年間で円陣でそんな声を聞いたことは1度もなかったので思わず鳥肌が立ちましたね。結局その試合は延長12回、2-3でサヨナラ負け。私は168球を投げて完投、負け投手になりました。星野監督は「ニシに勝たせてやりたかった。男にしてやりたかった」と新聞にコメントしてくださった。そこから20勝できたんです。

記者
印象に残っている出来事はなんですか?

西本聖氏
ある試合でまだ出始めだった山本昌が4回まで好投していた。ところが勝ち投手の権利が発生する5回に崩れてしまった。明らかにピッチングが守りに入っていたんです。5回途中で交代させられました。ベンチ裏で星野監督にかなり怒られていたので山本昌に「大丈夫か?」と声をかけると「僕が悪いんです」と素直に反省していた。巨人だとこういう投球をすると即2軍落ちとなるんですが星野さんは次の登板チャンスを与えた。今、この時にしっかりと教えないといけないと思ったのでしょう。厳しさの裏には想像以上の期待や優しさもあったと思います。選手を育てないといけないという思いも強かったはずですね。ある試合では代打で使った選手が三振してベンチに帰ってきた。「オマエなんか二度と使わん」と星野監督は怒鳴ったんですが、次の試合でもまた使った。するとまた三振。今度は「使ったオレが悪かった。二度と使わん」と怒鳴った。それでもまた次の日も使った。さすがに今度はヒットを打った。普通なら2軍落ちですよ。すごい監督だなと思いました。

記者
2003年にはその阪神星野監督のもとでコーチを務めました。

西本聖氏
私にとって初めてのコーチでした。選手時代と同じようにすべて任せてくれました。その年は18年ぶりの優勝という素晴らしい経験をさせていただきました。自分は2年契約でしたが星野さんが監督を辞められた。どうする? と聞かれたので「監督にお任せします」と答えたら「じゃあ、一緒に辞めるか」ということで1年で辞めました。1年間でしたが指導者としての勉強もさせていただき、同時に素晴らしい思い出をつくることができました。

記者
現役時代の星野投手については?

西本聖氏
「打てるものなら打ってみろ!」というすごい気迫だった。自分も打者に向かっていくタイプだったので「プロだな」と思いました。プロ野球選手というのは言葉じゃないんです。その姿、プレーを見せることでファンに感動を与えないといけない。そういう意味において星野投手はプロ中のプロだったと思っています。 


牛島和彦・野球解説者の場合





チームを強くするために、選手の入れ替えを行う。
フロントとして一番やりたくないことである。
ましてや、将来有望な選手を出すとあらば、どのツラ下げて相手と交渉に臨み説得させるのか。
己の身を切るよりも体に傷を負い、心に禍根を残さざるを得ない。当時の星野新監督は、その切所に自らの全部を投げ出し、牛島氏を説得に当たったのです。

中日星野新監督 チーム改革のためロッテ落合を獲得

中日監督就任が決まったばかりの86年オフ。まだ39歳だった新監督が、ロッテで2年連続3冠王になった落合博満の獲得を熱望しその結果、中日から4人の有望選手を放出するという大型トレードになったのです。

ロッテが「合意」と先行発表したのが12月23日。だが中日側の4人のうち牛島和彦だけは拒否していた。星野監督は25歳右腕の説得にかかる。まず、考える時間を2日与え、24日の深夜0時。自宅に呼び寄せました。

白紙の小切手を渡し「好きな数字を書け」と伝えたといいます。当時、トレード選手には100円ほどの引っ越し金だけが出されるだけ。それでも牛島氏はは金額記入を拒否したが、そこまで「鬼の星野」に頭を下げられ、最後の最後に折れました。

牛島の退団会見に同席し、ロッテとの契約に出向く日は名古屋駅のホームまで見送った。それから2年後に落合を擁して初優勝。「チームを強くしたい」という星野監督の熱い思いは、実を結んだのでした。


野村克也・元東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督の場合




【またひとり戦友が…】

野村克也氏
驚いた。いくらなんでも早すぎる。女房(沙知代夫人)を12月8日に亡くした。その前にも、杉浦忠、皆川睦雄、梶本隆夫、仰木彬、豊田泰光…と、同じ1935(昭和10)年生まれの“戦友”たちが逝った。そして今度は、ひとまわり年下の星野仙一。いやになる。残念だとしか、言いようがない。

【阪神、楽天と、星野はいつも自分の後について来た…】

野村克也氏
星野は私の行く先々についてきた。阪神、楽天。最下位チームの基礎作りを私がして、後を受けて優勝するのが星野。不思議な巡り合わせだ。いや、実は私が阪神の監督を辞任したとき、後任として球団に“推薦”したのが、星野だった。

【楽天星野監督誕生の秘話、最初の人選は別の人】

野村克也氏
久万俊二郎オーナーに「誰か、いい人はいませんか」と聞かれ、最初は「西本幸雄さん」と答えた。「このチームを強くしようと思ったら、まず編成部門の強化。さらに、選手に怖がられる監督を呼ぶ」というのが、私の考えだった。

【野村克也氏、星野さんの招聘成功を100%予言、さすがです!】

野村克也氏
ところが、西本さんには以前、監督就任要請を断られた経緯があるという。「それなら、星野です」と名前を挙げた。「来てくれますかねえ」と不安がる久万オーナーに、「賭けてもいいです。100%来ます」と断言した。後日、「おっしゃる通りでした」と感謝されたものだ。

【野村克也氏、自分にはない才を星野さんに感じる!】

野村克也氏
監督には2つのタイプがいる。(1)与えられた戦力で、やりくりする(2)編成も兼ねて、チーム強化に乗り出す。私は(1)で、星野は(2)。星野はとにかく、球団に資金を出させるのが、上手だった。

【野村克也氏、星野さんと同じ才のあった往年の名監督に想いを馳せる】

野村克也氏
この(2)のタイプは、昔の監督に多かった。私の現役時代の南海の監督、鶴岡一人さんも、自ら東京六大学野球などに足を運び、選手をスカウトした。立教大学のエースだった杉浦はそうして獲得し、同じ立大の長嶋茂雄からも、一時は入団の約束を取り付けていた。その意味で星野は、昔ながらの監督像を体現する、数少ない人間だった。補強も試合も陣頭指揮。鉄拳制裁も辞さない-。そうした監督は今後、現れるのだろうか。

【野村克也氏、星野さんの死を悼む】

野村克也氏
人間に勝てないものも、2つある。(1)時代(2)年齢。それは重々承知しているつもりだ。しかし、こうも野球人に次々と先に逝かれることなど、想像もしていなかった。今はただ、お悔やみを申し上げるほかない。


田淵幸一・野球解説者の場合



【2018年元旦に来たメールでは気丈な星野さんだったけど…】

田淵幸一氏
新年を迎えた直後に星野にメールを送ったら、1日朝に返信が来た。「体調が良くない。歩くのもとぼとぼだよ。だけどもう一回、体調を戻してゴルフをやろう」って。その後に電話で「弱気は似合わねえよ。今まで人生は強気、強気で来ただろ?」と励ましたら「よっしゃ、お互いに頑張ろうな」と言っていた。でも、それが最後の会話になった。

【ガンだということを知らなかった…】

田淵幸一氏
がんということも知らなかったから、ショックだ。去年、僕が大動脈瘤(りゅう)の手術をした後、見舞いに来てくれた星野に「お前も気いつけないかんぞ」と言われたんだけど、本人はその時に自分ががんと知っていた。彼らしいよ。弱いところを一つも見せなかったんだ。

【厳しさと優しさと気配りと、だから皆惚れるです】

田淵幸一氏
厳しいだけでなく、気配り、目配りができる。やる気を起こさせるのもうまい。失敗した選手はすぐ使う。その選手の人生も考えていた。優しく、いたわりがある。だから皆、ほれるんですよ。

【星野さんのいつもありがとうの言葉に、こっちこそだよ】

田淵幸一氏
いつかは同じユニホームを着たいという思いが現実になったのが2002年。阪神の監督、コーチとして03年にはリーグ優勝した。 マウンドで抱き合ってね。思い出に残るのはやっぱりその試合かな。1日にもらったメールの最後は「いつもありがとう」。でも、こっちが言う言葉だよ。


金本知憲阪神監督の場合




金本監督は、星野さんが阪神監督に就任して2年目の平成15年に、リーグ優勝に輝いた時のスラッガーだった。

突然の訃報を受け、金本監督は6日、兵庫県西宮市の球団事務所に駆けつけ、「(前日の)夜遅くにちょっと噂を聞きまして、朝に正式に聞くまではウソであってほしいなと思いながら、夜中に何回も目が覚めた。いまだに受け入れられない」と神妙な表情で語ったという。

星野さんと金本監督との間には二人だけが語れる確固たる人間関係がある。

金本選手は14年オフに広島からフリーエージェント(FA)で阪神に、鳴り物入りで移籍した選手だ。

長らく低迷が続いていた阪神をフロントとして何とかしたいとの熱い想いから、当時の星野監督の野望はFA宣言した金本知憲選手に向けられていた。

その金本選手を見事に引き入れ、その年18年ぶりの優勝を飾った星野さんの執着ぶりは凄まじかった。

星野氏の誘いは熱烈だった。金本監督は当時を振り返り、「電話の回数ですね。毎日、毎日…。僕を獲るという執念をみせてきた。最後は『もう行けばいいんでしょ』みたいな感じだった」と述懐する。その期待に応えるように、移籍1年目から中心打者として打線を牽引(けんいん)し、まさに優勝請負人となった。 星野氏の情熱なくして、猛虎復活への道は開けなかったといえる。

そんな星野さんとの思い出をしみじみ述懐する金本監督は、「いい思いをさせてもらったのは星野さんのおかげ。僕にとっては、関西の父親代わりみたいな方でした」と感謝の思いを口にした。

金本監督が星野氏と最後に言葉を交わしたのが昨年12月1日、大阪市内で開かれた野球殿堂入りを祝う会である。

星野監督のもと優勝を飾って以来、阪神はリーグ優勝から12年も遠ざかっている。

その時集まった星野さんを慕う阪神のメンバーは、15年の優勝メンバーであり、今の阪神の首脳陣として顔を連ねている。

これらメンバーを前に、星野さんはまるで自分の死期を悟っている恩師が、愛弟子に最期の想いを相伝するするがように、熱く彼らに呼びかけた。

思い起こせば、当時の金本選手へのラブコールから阪神再建の道筋が始まった。

金本監督が率いる阪神だけに、そこへの思い入れは決して小さくはないであろう。

弱小チームから頂点へ。

今また、星野さんの切なる願いは愛弟子・金本監督を通して、優勝への道を彼の魂魄と共に駆け巡るだろう。

「このメンバーが軸になって強いタイガースを作ってほしい。それが俺の夢や」

今年の阪神の首脳陣は、皆この言葉を胸に刻んでいる。

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