今井 上原 乙武 不倫は文化だ!じゃ済まない石田も超える大度量!

今井絵理子がいて、上原多香子がいて、乙武洋匡がいて。
政界、芸能界の錚々たるメンバーが不倫を謳歌している。というよりか、していた。
男と女がいる以上、そこに間違いが生じ、安定よりも激情に魅力を抱いてしまうのは人間の哀しい性(さが)なのかもしれない。
だが人間の本能に近い欲求だからと言っても、好き勝手にのめり込んで行った先には、相応の裁きが待っている。
それでも人間はそうした哀しい性(さが)にのめり込むのだ。

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かつて不倫は文化だと力説した石田純一!彼が唱えた不倫哲学とは?

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とはいえ、男は女を好み、女は男を愛する。

そんなフレーズを日々を噛み締めて毎日を生きていそうな好男子がいる。

石田純一氏である。

1996年10月、あるモデルとの不倫の現場を「フォーカス」にスッパ抜かれると、彼は激しいマスコミの取材攻撃を受けた。

時に居留守を装い、時にダミーを使い、時に周囲を煙に巻く手法で、必死に自分をガードしてきたが、それが広いゴルフ場においては、ガードしようが到底無理。

ここで大勢の取材陣に何度も取り囲まれることになる。

それでもなんとか振り切り振り切って、12番ホールまで来ると彼は少し油断して、そのホールで不意の女性記者の質問に迂闊にも答えてしまった。

記者「でも、やっぱり不倫は許されないですよね?」

石田「それはあなたのお考えであって、善悪を決めるのは私でもあなたでもないはずです。確かに、結婚生活を破綻させずにちゃんと成就させている方は尊敬に値します。でも、不倫を完全に否定してしまったら、世界からどれだけの芸術がなくなってしまうと思いますか?不倫という恋愛から生まれる音楽や文学もあるじゃないですか?苦しみや葛藤から生まれる文化だってあるんです!」

で、翌日。

この言葉は質問した当の女性記者ではなく、近くで聞いていたスポーツニッポンの記者により、

「何が悪い?不倫は文化だ!」と、書き換えられてしまったのだ。

どうもこれが真相らしい(笑)

彼はこうも言っている。

「今も間違ったことを言ったとは思いません。もちろん、不倫を奨励するわけではないし、しないで済むならその方がいい。しかし、道ならぬ恋を成就させようと苦しみもがくことや、多くの吐息が、芸術作品が生まれる上での大きな原動力にもなっているんです。」

なるほど一理も二理も三理もあるように思う。

当時「不倫は文化だ!」ほど、人口に膾炙したフレーズもまた珍しい。実は、石田純一氏はこう語ったわけではないのだが、芸能人から政治家まで不倫報道が喧しい昨今、あらためて「不倫」と「文化」の関係や意義を考える必要がありそうだ。

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不倫の大家 ワーグナーとドビュッシー!二人を調べ不倫と文化について考究する!

彼は著述の中で、ドイツの作曲家、リヒャルト・ワグナーとフランスの作曲家、クロード・ドビュッシーを挙げている。

ワーグナーの女性遍歴もまた奔放としている。

彼は最初、4歳年上の、連れ子もいるミンナという女性と結婚するが、このミンナにあまり魅力を感じなかったらしい。

当時は避妊の技術が未発達だったせいか、結婚前の女性に子供がいるのは必ずしも珍しいことではなく、ワーグナーが最初に結婚した女性も子持ちだった。

結婚後、創作意欲と共にある彼の煩悩は、即座に不倫へと欲望を掻き立てられ、最初の不倫相手はジェシー・ローソというボルドーのワイン農園主の妻であった。

1850年当時、ワーグナーのファンだというこの女性から、夫と不幸な結婚生活を送っているとの手紙が届くと、ワーグナーは一目散にボルドーに行き、彼女と不埒な夜を何度も何度も堪能したらしい。

続いて1852年、マティルデ・ヴェーゼンドンクと運命的な出会いを果たす。

彼女はワーグナーの大事なパトロンの夫人だったが、その夫人を寝取ってしまったのだ。

彼女との逢瀬や情事のことを濃密に謳いあげた歌曲集は、歌劇『トリスタンとイゾルデ』中に色濃く取り込まれ、再現されている。

要は、劇作家兼作曲家たるワーグナーはこうして身の回りにドロドロしたものがあったからこそ、自身の人間の苦悩や性(さが)をテーマとした深みのある作品を作り得たとも言える。

ワーグナーはその後、ハンガリー生まれのピアニスト兼作曲家のフランツ・リストの娘のコージマと結婚。

リストはワーグナーの親友だった。

この親友にしてこの人あり。

そんな格言がこの二人にはぴったり当てはまるが、リストもまたワーグナーのようにパトロンの夫人と出来てしまい、その間に出来た娘が、コージマだったのだ。

ワーグナーは親友の不倫の子と出来てしまった訳だが、この寝取るタイミングがまたすごい!

コージマはワーグナーの親友でベルリン・フィルハーモニーの初代首席指揮者であったハンス・フォン・ビューローに嫁いだが、ビューローがワーグナー作の『トリスタンとイゾルデ』の指揮を担当したその上演直前に、ワーグナーによって寝取られたのだ。

ぐちゃぐちゃで混沌で破天荒で何やらとても滑稽であるが、芸術家というのはこうしたカオスの中から優れた何かを抽出して、作品という秩序を作り上げるのかもしれない。

こうした不倫から生まれた文化は、ただ「不倫」と「文化」を言葉で繋ぐ作業なのではなく、人生には抗いがたい出会いがあって、それに真剣に向き合うことによってこそ生まれる刹那の幸福感や苦悩や人生そのものを、ワーグナーたち大家は表現しているのであろう。

このように、ワーグナーの女性遍歴を見ると相手は人妻ばかりだ。彼が人妻好きだったこともあったのであろうが、当時、教養ある女性といえば身分の高い男性の妻だった背景が彼をしてそうさせたのかもしれない。

貴族の高官たちは、軍務の他狩りなどの遊びで家を開けることが多く、無聊をかこつ妻には若いツバメと不倫に没頭する機会がいくらでもあったのである。

もう一人の若いツバメ代表は、フランスの作曲家、クロード・ドビュッシーである。

彼は学生時代に年上の夫人と不倫しながら、パトロンの13歳の娘と恋仲になったのを皮切りに、手当たり次第に女性に手を出し、二人の女性を自殺未遂に追い込む。

マリという女性と結婚し、その結婚の際、振られた女性が自殺未遂し、その数年後、エンマという女性と不倫すると、その妻マリが自殺未遂をするのである。

これらの混沌とした世界を軸に書かれた楽曲がドビュッシーの代表作『月の光』だということだ。

まさか、これほどのドロドロ感と『月の光』の楽曲の繊細さを同時期に体験創作していたとは到底思えないほどの大作だ。

このように、不倫の魔力は強力なパワーやインスピレーションを秘めていて、同時に不倫はその背景に破滅的なものを背負っているがために、それを糧にした作品が今なお受け継がれ脈々と生き続けているのであろう。

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因果応報!不倫をしたら不倫をされることを覚悟すべし!不倫はそれほど重いもの!

で、こうして不倫の有用性について語ってきた石田純一氏。

このところ、「週刊新潮」も含めて不倫報道が花盛りです。もちろん、事実として報じる分には構わないと思いますが、それが正しいとか間違ってるとか、ジャッジする物言いには賛成できません。奥さんがある男性が、他にきれいな女性と付き合っていれば、やっかみが生じるのは当然です。ましてや相手が芸能人やアイドルたったら、やっかみは5倍にも10倍にもなる。『不倫男』の代表たる僕としては、それは想定内でした。でも、他人の行為を無闇に裁くのはどうかと思う。果たして、何でもかんでも品行方正であるべきでしょうか。その人は偶然が重なる中で、抗いがたくそういう状況に陥ってしまったのかもしれません。そうした本能のようなものまで否定するのは、人間への冒瀆に繋がりかねないのではないか。そんな風に感じるのです。

こんな形で、不倫と文化についての造詣を語る石田純一氏であるが、最後の最後は、オペラの終盤で見せるどんでん返しのように、手痛いしっぺ返しを食らうのではないかと覚悟しているようだ。

人生の最後に手痛いしっぺ返しみたいなことが起きたとしても、自分は文句は言えないんだろうなぁ。

とても素直で可愛い人なんだぁと、改めて氏の器の大きさを実感したところだ。(おしまい)

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