大政奉還!明治政権 鳥羽伏見の戦い凌ぐ史実!龍馬の想いが結実!

夕焼け

大政奉還。
それは歴史上の快男児・坂本龍馬によってなされた日本における常識を超えた歴史上の動脈瘤ともいうべき史実。
1867年、薩長の武力討伐をかわす形で幕府に呈上された超・法規的日本救済策である。
その史実から150年が経過した。
ほぼ時を同じくする鳥羽伏見の戦いという武力討伐による政権交代の史実と比べて、その持つ意義は非常に大きい。
何故ならそれが、無血革命だったからだ。
日本が西欧列強の外圧から逃れ得る唯一無二の政権交代劇が、150年の時を経てクローズアップされる!

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北辰一刀流の達人 坂本龍馬!一方では武力討伐へ!一方では無血革命へ!その想いとは?

日本史が誇る時代の英傑、それが坂本龍馬。

そして彼がなした歴史的偉業の最たるもの。

それが大政奉還。

当時日本の立ち位置は、欧米列強の蚕食寸前の亡国の状態であった。

政権を交代する。

それは現在のような◯◯党から◯◯党へ変換するというような変遷として微々たるものではなく、国家の礎えが根底から揺らいでいく天下国家の一大事であり、260余年の間、日本の屋台骨として存在して来た幕府を倒すこと、これが政権交代の意味であった。

誰しも、武力により旧体制を打破するしかないと思っていた。

そんな折、1866年、薩長による武力討伐同盟が結ばれた。

それがいわゆる薩長同盟である。

龍馬が犬猿の仲のこのニ藩に手を結ばせた意義は非常に大きい。

薩長同盟、当時誰もが考えたことではあったが、それは100%夢の世界の絵空事の領域に属する出来事であった。

この二つの藩が手を組んだなら、倒幕の果実は早々にして二つの藩の手の中に落ちる、そんな風に噂されていたのだ。

しかしながら、この二つの藩は、歴史上の雄藩と目されていながら、協力するなどはもってのほか、絵に描いたように仲が悪い。

薩摩藩は時に幕府と手を結び、時に幕府を力で籠絡しつつ、その力を天下に轟かせていたが、長州藩は、経済力を背景に朝廷を味方につけ、薩摩を凌いで天下を壟断しようとする勢いを持っていた。

当時、天下を切り開く雄藩は薩摩と長州であろうと思われていたが、一方で、彼らは共に自らを妥協して共に協定を結び合う融通性を持っていない。

決定的となったのは、8月18日の政変で薩摩が朝廷の長州勢力を一蹴して、薩摩の力を背景として幕府をおし立てた時に、長州がその奪還を期して都大路で薩摩・幕府軍と闘った禁門の変であろう。

この闘いで、長州の多くの有能な志士が倒れた。

久坂玄瑞や吉村寅太郎もこの闘いで散った。

久坂玄瑞は、革命の天才・高杉晋作と並び称された人物であり、吉村寅太郎は、師の吉田松陰がその才を惜しんだ英傑である。

それぞれに英邁な辞世の句を詠んでいる。

久坂「時鳥 血に鳴く声は 有明の 月より他に 知る人ぞなき」

吉村「吉野山 風に乱るる楓葉は 我が打つ太刀の血煙とみよ」

長州では多くの有為な志士たちが、薩摩との闘争の中で、非業の内に死んでいる。

が、この仇敵である二つの藩に同盟を結ばせて、ほぼ同時進行で将軍に政権を奉還させるという離れ業を坂本龍馬はやってのけたのだ。

何故、そんなことが彼に出来たのか?

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剣の達人 龍馬!誰よりも剣技に優れ、誰よりも血を見ることを嫌う心優しき男!

これは彼の持つ人間的優しさから起因しているかもしれない。

龍馬の死は1867年11月15日。

京都の伏見近江屋で幕府の走狗・見廻組の筆頭、佐々木唯三郎らの手により暗殺された。

ただ、佐々木が直接手を下したとも、そうでないとも言われている。

龍馬は中岡慎太郎とシャモ鍋を食している間に凶刃に斃れた。

階下で大きな物音がする。

それを龍馬は下男達の戯れだと思い、静かにするようにと『吠たえな!』と叫ぶ。

刺客たちはその声のありかを目指して、一心に階段を駆け上っていく。

かつて池田屋において、新撰組の山崎烝の企図によってあらゆる刀槍を一箇所にまとめられ、いざ新撰組の襲撃を受けて、丸腰で闘わなければならなかった。

結果として、累々たる屍を積み上げざるをえなかった倒幕派の男たち。

丸腰で戦うことの無意味さを、龍馬ほど理解している男もいない。

だが、それと同じ状況が作り出されてしまった。

龍馬は平素、剣を馬鹿にしていた。

なので剣が手元にない。

己が剣の達人でありながら、日頃から殺傷を嫌い、剣について不用心であったのである。

千葉門下の駿足としてその剣名を皇都に轟かせていたにも関わらずである。

龍馬は結局、鼠族同然の刺客に不意を襲われた。

多くの志士たちの血が流れた。

その屍の列の果てに現れる新しい世界に、誰もが理想社会を夢見ていた。

むろん、龍馬もそのひとりであったろう。

しかし、多くの志士が路上で大根のように斬られ、膾のような無惨な殺され方をした。

死の間際、こんな言葉を吐いて瞼を閉じた男もいる。

「死んでもまだ魂魄が残っている。魂魄でもって仕事(倒幕のこと)をする。良い世が来るまで俺は成仏すまい。一足先に切腹して果てた間崎哲馬が死の寸前にそういう詩を賦したではないか。」

龍馬は4度、刺客の白刃に甘んじた。

1度目で前頭部に致命傷になるほどの痛手を受け、2度目で命の高揚を見せはしたが力なく、3度目で鉄を斬るほどの斬撃を受けた。

4度目は最後に龍馬の前頭部をさらに深くなぎ切った。

龍馬は朦朧とする意識の中で、中岡を見た。

「シンの字、俺は頭をやられている。もういかん」

と言って、ゆっくりと染み入るような笑顔を見せた。

その笑顔が凶刃を受けた2日後に息絶えた中岡の網膜に残っていた。

龍馬は言い終わると最後の息をつき倒れ、その霊は何の未練もなげに天に向かって駆け昇る。

司馬遼太郎氏の作品「竜馬がゆく」の中で、龍馬をこう評している。

天に意思があるとしか、この男の場合、思えない。

天がこの国の混乱を収拾するためにこの男を地上に下し、その全てが終わった時、惜しげもなくこの男を天に召し返した。

龍馬は、仕上げた己の成果について、未練も後悔もなく、魂魄と五体を駆け上らせた。

当時、最強の剣術の流儀であった北辰一刀流の達人でありながら、人への憐憫に満ち、無益な殺傷を極端に嫌った龍馬。

国家を作るにあたっても、その視線は既に天皇を軸とする君主制ではなく、君主が国民の中から選ばれる共和制国家を夢見ていた。

「アメリカでは大統領が下女の給料の心配をするというぞ!徳川将軍は一度でもそんなことをしたことがあるか!それだけでも幕府は倒さねばならぬ。」

そんな言葉を残していたという。

このセリフは後に、土佐に伝わって勤王派の人々の心を奮い立たせるに至る。

土佐系の勤王運動は、薩長両藩のそれとは一線を画していている。

どちらかと言うと人民救済の匂いが強かった。

それは間違いなく龍馬の影響であったろう。

この伝統はさらに明治後の自由民権運動にまで繋がっていく。

こんなところから、土佐からは板垣退助、植木枝盛、中江兆民といった多くの民権運動家たちを輩出していくことになるのである。

それほど、龍馬は血を見ることを嫌った。

と同時に、革命の果実を薩長二藩に帰属させることを嫌ったのかもしれない。

大政を奉還させて、政権を幕府から朝廷に移し替える。

天下から戦(いくさ)という血をみる惨劇を排除して、土佐藩を中心とした無血革命を薩長に代わって打ち立てる。

朝廷を補佐するものとしてその代表を雄藩から選出させる。

のちに西郷隆盛と勝海舟による江戸城の無血開城は既に亡き龍馬の意思を勝と西郷が受け継いだ結果なのかもしれない。

そのメンバーとして土佐の面々もねじ込んでいく。

そんな構想を彼は持っていた。

ところで、龍馬を斬った男については種々の噂がある。

龍馬の暗殺現場の室内には、『梅椿画』の掛軸があり、当時、龍馬の背中側の壁に掛けられていた。

この掛軸の下部には龍馬のものと思われる血糊が付着している。

この血飛沫、床から80センチとかなり低いところに着いている。

伏見近江屋の天井は、約180センチとかなり低く、通常の刀ではすぐに天井に突き刺さって身動きの自由を失ってしまう。

その2点から、龍馬は最初の一太刀を、座ったままの姿勢で、しかも通常の太刀ではなく、小刀で斬り付けられた可能性が高いという。

彼を斬ったとされる候補者の中に、それと合致する手練れがいた。

右手に小太刀、左手に逆二刀の使い手と評された桂早之助である。

あくまでも推測に過ぎないが、龍馬を斬った男として有力な筋であろう。

何れにしても、誰よりも人の血を見ることが嫌いだった龍馬は、自分の血を見ることは厭わなかった。

北辰一刀流の達人が剣を侮蔑し、それを用いることを嫌った。

一度は武力討伐の方法を模索した人間が、それを嫌い、大政奉還への道を辿った経緯と、それは同じものかもしれない。(おしまい)

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